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よく晴れた日のお昼時、番いのメジロが足元の低木の茂みに降りてきた。私がカメラを向け、物音をたてた途端、2羽は飛び立ち、近くの道路を横断……その瞬間、中型貨物トラックが通過した。
1羽は身をかわしたが、もう1羽は巻き込まれたように見えた。トラックが去ったあと、逃れたメジロは生け垣に、もう1羽は姿を消した。私の死角で銀色のコンテナにぶつかったように見え、その近辺の路上に姿は見えない。気絶してトラックに引っかかったか、あるいは……。
生け垣の1羽を撮影し、ひどく自責の念にとらわれた。もし、自分のせいでもう1羽が命を落としたのだとしたら、と。あるいはどこかで生きていることが、あの状況であり得るだろうか……。
映像の中のメジロは、それまで一緒にいた相手を捜しているようにも見える。私がそのような状況を作ったからそう見えるのか? ともかくも、あまりに痛い出来事だった。
私は、それと気付かぬうちに、このように他者の生命にかかわる言動をどこかでとっているのでもあろう。世界で起こっている惨たらしい出来事で、私と無関係であるものは何一つないと思うに至る。そのような、失敗や反省から生まれる痛みのひとつひとつを、新たなエネルギー源として受け止めていくのか、挫折へのきっかけとしてしまうのかで、進みゆく過程は異なってきた。
しかし、我々が倒れ、のたうちまわることを経験したとしても、それは、いわば、また立ち上がるためのきっかけにすぎなかった。絶えざる生々流転の中では、学びの糧として、そのようなどうしようもない痛みを味わうこともあるだろう。学びとはそれほどに厳しいときもあるだろう。
しかし、しかしまた、自然が美しくあり続けている本当の意味は、その時とその先にもあり、それゆえにいつでもどんな状況でも我々は、古きおのれを去って、再び立ち上がることを許されている。そして、なぜそのような尽きせぬあたたかいエネルギー、計り知れない大きなエネルギーに支えられているかに気付かざるをえないのだ。
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