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人体生理

血液を調べる (2)──赤血球の変化 その1“きっかけ”
Observing Blood (2)
Metamorphosis of Red Corpuscles -Part 1 "Incentive"

血液を調べる (1)”の続き。
突起をもつ球体が何に由来しているかを確認した映像。
たまたまカッターで切ってしまった指のケガの出血をすぐに採取し、調べた。観察開始から50分間の変化。
03:06.05

この動画の最後に出るコメントは、You Tube での設定によっては表示時間が短すぎ、読みにくいようです。
動画を一時停止すれば読めますが、手間がかかるので以下にコメント部分を引用します。

赤血球は刺激や条件により変身する。それは、自分が何をなすべきかを認識し、役割を自覚しているかのようだ。
その後、プレパラート上でこの血液は結合し、痂皮(かひ)のような膜を形成した。この赤血球の変身は「血小板への分化過程」と考えられる。それは、故 千島喜久男医学博士がご自身の研究ですでに説いておられる。
血液のことは隠蔽された重要事実の一つである。
この映像はその傍証の一つとなりうるはずだ。

引用以上

撮影:2008/5/3 14:05 制作:2010/4/17

 「私の意志・意図にかかわらず独自に活動する生物あるいは生命体が私の体内に存在している」──自分の赤血球の生きている様を見て、私はそのような不思議な気持ちになった。
 赤血球は、私の意志が何であるかに左右されることなく、私の生命を守ろうとして一連の活動をしているようだった。
 これらの赤血球が細胞に分化する過程で生ずるDNA(注) はまぎれもなく私を構成するものである。つまり、この生命体は私の一部であり、また、私そのものでもある。
 私そのものであるにもかかわらず、私の肉体を離れても生きており、私の意志と無関係に、何かの力に導かれ、元来備わった能力による活動をする。それは、私の意志でコントロールされているものではない。
 そう思ったとき、私は「これらは神によって創られたものである」と直感した。

(注)千島学説に基づく


「病気」とは...

 生命活動を阻害するような体内の物質・微生物・非物質的エネルギー等の除去または解消ができず、身体や精神に異変が生じ、生命維持のために身体が臨時態勢をとることがある。その一連の現象および経過が「病気」と呼ばれているように思う。

 なぜ、ヒトは病気になるのか。

 人は、本来、地球人としての進化を遂げるための、自然の摂理の中に在る。人は人類の進化に必要な必然として自由意志に目覚めた。それはまた自我欲の芽生えでもあった。

 多くの人々は、今在るこの肉体が自分のものであると考えている。真実に照らして、正確に言うならば、それは違う。
 わが肉体は宇宙創造者(これを神と呼ぶ)が創り賜うたものである。神は魂をお創りになり、その生きる器、魂の宿る宮としてひとつの肉体を定められ、それぞれの生命の生きる最も適切な場をお定めになった。
 日本古来の表し方でいえば、天には宇宙創造者があり、天津神(あまつかみ)がおられ、地には、天の意を受けておはたらきになられる幾多もの国津神(くにつかみ;地の神々)がおられる。
 この地球にあっては、地を創る素である空・風・火・水という自然霊は天の神である。また、幾多もの地の神々は精妙に整然と組み合わさって、地のすべての現象としてお働きになっている。自然、森羅万象、そこにあるすべての生命は地の神々のおはたらきの一部として在る。私たち人類の肉体もまた、地の神々のおはたらきの一部として存在している。そして、赤血球たちはその最重要とも言える要素である。
 しかしながら、人のは狡猾であり、身勝手であり、魂や自由意志を騙し、己を騙し、自我欲の思いのままに肉体を支配しようとした。
 人は肉体を我が物として使うようになった。ここに根本的な間違いがある。
 人は肉体を我が物と思い込み、欲を満たし、己を利した。そして、摂理を軽んじ、無視し、忘れた。それは、創造主と天地の多くの神々を軽んじ、無視ずることである。
 地の神々のおはたらきに添わないとき、行いはカルマとなる。それが都合のよくない結果となると、心はカルマを気軽に闇に押し込め、済ませたつもりにさせた。しかし、闇で存在するカルマはいつかまた現象となって表れ、新たなカルマを作り出す素となり、手の施しようがなくなるまでに累積していく。個人においても、社会においても。
 そして、それらは最終的には地の神々、また、地球の声として、肉体に現れることになる。
 病気とは、その現象の一部分でもある。

 今、地球は、地球と全生命の進化を完遂するための最終段階に到達しており、すべてのカルマが解ける(神にすべてのカルマを解いていただく)その時に向かっている。それができた結果、この地球は、本来のプログラムによる本来の自然な進化の完成を迎えることができる。進化した新たな世をどのように創るか──それは、現在の人類に、人類の正しい自由意志にかかっている。
 すべてのカルマが解けるとは、すべてのカルマが1滴残らず出し尽くされるということであり、それはすなわち、全生命に関わる「ひとつとしてのカルマ」をすべての者が身に受けるということである。
 それらの現象の一つとして、当然、「病気」もある。
 大周期を迎えた人類の進化においては、人類自らによって、すべてのカルマが1滴残らず解消される必要がある。そのために、その役割・使命として、身を挺して病気やけがを身に受ける方々もおられる。そのような方々は、特に何かの信仰者ではなくても、「神」を言葉にされる方は少なくない。
 人々は今、「病気」を通じて、ただならぬ何か──今地球で起っている宇宙的な進化という真実──に気付くチャンスにめぐりあっているとも言える。すなわち、肉体の真の意義と我が心、その2者の乖離に気付くことがその端緒となるのである。
 ──この肉体は、けっして我が物ではない。

 病気の時も、そうでないときも、赤血球は、天意を受けた地の神々のお働きの一部として、休まず活動している。今回、血液の映像を通じて私が得た直感とは、おおよそそのようなことであったようだ。

「摂理」について

 「摂理」とは、辞書等には次のようにある。

  • キリスト教で絶対者たる神が、世界のあらゆる現象を支配すること。(『新潮国語辞典』より)
  • 神が究極因としてだけではなく動力因としても,世界全体と個々の存在,特に個々の人間の出来事に介入してこれらを神自身のほうに効果的に導くこと。プラトンの『法律』、ストア派の pronoia (摂理) にすでに神的摂理観がみえるが,明確にはキリスト教神学で立てられた。(『ブリタニカ国際大百科事典』より)

 このような、神による「支配」や「介入」というのは、私には少し違和感がある。本来、神は人の心や自由意志を「支配」したり、「介入」するものではない。
 私の思う「摂理」とは、「創造者によって創造された進化のための整然とした法則と秩序、また、その進化のためのプログラム、または、創造者の御心に沿う、正しい手順」というようなものである。
 神が現象に対して「支配的」であるとか、個に「介入」するというのは、あるひとつの、古い見方、表現の仕方であろう。
 元来、神は人の自由意志を尊重するものである。なぜなら、他者に「介入」しないのは宇宙の原則であり、人類の自由意志は、真の進化のために必要不可欠の要素だからである。

 進化について。
 人々は、いつからか、進化──生物の進化を証明することと、また、自らが進化すること──を求めて生きるようになった。
 有史上は紀元前から進化への認識はあったとされ、その後、ダーウィンに始まるとされるように、生物学的、あるいは自然科学的な見地から進化が多く論じられるようになり、宗教からの乖離が主張されるようにもなった。一方、人類の精神面での進化も論じられてきた。それは、個人の内面性という観点であったり、社会活動や文化という観点、また、心理学、その他、様々な人文系の学問といった方面であったりした。しかし、これらはすべて、地球現象界の閉じられた条件の中でのことである。
 閉じられた(限られた)条件の世界では、必ず進化の限界を迎える。それは、全生命の生きる場としての地球の限界であり、一つの生命体としての地球の大周期の終焉である。これを乗り越えて、地球および地球上の全生命が生まれ変わることが必要となる。最重要の進化とは、この、地球および地球上の全生命が生まれ変わることをいう。
 地球大周期の終わりを迎える進化には、人類の自由意志が必要である。すなわち、人類が自らの意志で、人類の総意として真の進化を選択しないと、その真の進化は得られない。
 地球の場合、過去に大周期を6度迎え、6度失敗に終わったことがあることは、すでに語られている。今回は7度目の大周期の終わりである。詳細には触れないが、大周期を正しく終えることができ、新たな地球を人類の手で創りあげていく道は、今や、すでに開かれ、真の進化は、今進行中である。

人は、閉じられた条件を超えた未知の事象について論ずるのは難しく、結論は出ない。

 私が前記した進化とは、近年ようやく広まってきた宇宙と生命の進化、そして、その中の地球の進化をいう。1950年代以降、地球外の遊星人が地球

 個を重んじようとした。個を重んじるあまり、神への意識は薄れ、様々なカルマを産み出してきた。自由意志によって個を保とうとするあまりに、勘違いも過ちもあった。そして、ついに、限界が生じた。
 地球は、解きがたい苦悩と悲しみのカルマに満ちて、今日まで来た。今日まで来て、もう、どこへも行き場がないほどの限界に突き当たっている。
 人類の、どうしようもないカルマの姿が、今世界で起こっている様々なできごとである。それが、これまでの常識あるいは良識では捉えられないものになっていることを、多くの人はわかっている。これらのカルマは、基本的に、それを産み出した者、すなわち全人類によって解かれなければならないのが宇宙の原則である。

 神が我々人類に対してなさることは、魂をお作りになり、その席(場)を設けられることである。
 神は生きようとして求める者すべてを真の進化へと、根源的な、無条件の、絶対的愛をもって導く。それは、地球の歴史の中で語られる支配とか介入とはまったく異なる波動である。この進化の中にこそ、宇宙全生命の存在の実体と真実がある。

 一方、人々の苦悩や悲しみはそのまま神の苦悩や悲しみである。人々の歓びもまた神の歓びそのものでもある。そして、すべての人々の生活のどのような瞬間、どのようなささいな出来事にも、創造主の祝福と いつく しみ、大愛がある。

 大周期を迎えた地球の進化の最終ステップでは、神の、進化を進める御心に沿うことが不可欠であり、それのみが真の進化を成就する道である。すなわち、苦悩を超えて、自由意志として神に身をゆだねるということである。そしてそれが、宇宙の大愛の中で、神とともに進化の歓びを共にすることであると理解できるかどうかである。そして、最終的には、人類のすべてがそうなるのであり、その鍵を、宇宙の心をわかる者たちが握っている。
 「自我」を重んずる「心」は「真の自由意志によって神の御心に沿う」ことを、「神が苦悩を味わわせることで神の御心に沿うことを強いる仕組み」、すなわち「神による支配」としか考えられなくなる。その時の誤った自由意志はカルマとなり、残ってしまう。しかし、前述のとおり、人類の苦悩は人類自身のカルマの蓄積により産み出されてきたものであり、神が与えたものではない。


 その神の導きは、地球の今回の進化に向けての最後のプロセスの際には、地球の全生命に対するある種の「強制」として働く。しかし、それは進化のための必須条件であり、それなくして、全生命の実体と存続はない。
 地球の新たな世を開始するまでの、カルマを含めた万物すべての要素による神のプログラム、それが「摂理」である。

 今回の地球では、過去において、神による最後のプロセスに向けての神々のセレモニーが行われ、地球人類の参加が正しく実現されたことにより、セレモニーは成就した。

 人類の苦悩や苦痛は、神に従わせるために神が人類に与えたものではない。それは、人類が自らの自我より発したカルマによって作り出してしまったものであり、神ご自身も同じ苦悩や苦痛としてお受けになる。

 宇宙は創造主により作られたものである。すべては創造主の一部として在り、創造主と無関係なものは何一つない。
 宇宙には、人智では計りきれない進化の道筋があり、すべての生命は正しい進化の途をたどることのできる可能性の中に存在している。神はそのような場──すべての存在が学びを全うできる場──を、すべての生命に対して用意され、すべての魂を適所に配置してくださった。

 “一つの遊星”は、その遊星自体も含め、遊星上の生命全体で一つの学びの場である。そして、カルマもまた全体で一つであり、すべての個はその中にあり、互いに無関係なカルマはない。「万物一体」とはそのようなことである。
 私共の“一つの遊星”とは、いうまでもなくこの“地球”である。そして、その場の中で、人類は、最も自分にふさわしい進化の在り方を、自らの自由意志による選択に基づいて、学ばせていただける。

そして、人類のカルマのうち、最重要であり、また他と性質を異にする問題が原子力であった。
 なぜ原子力が他と状況が異なるのか。他のカルマはすべて地球という遊星、その閉じられた環境条件の中ですべてが解決されうるものであるが、原子力は、地球以外の天体ともつながる性質を持っており、地球を超えて、宇宙全体に影響を及ぼすものである。これを扱えるのはその創造主だけである。
 核反応のたびに、そこに住み、そこにつながる幾多もの魂の生活の場と生命を破壊する。なんと、「核」の「平和利用」という言葉は、まやかしであり、虚妄であった。
 人類による「核操作」それ自体が、宇宙レベルの無限の大量殺戮である。──これこそが全人類が認識すべき最優先事項である。それは、もはや放射能の恐怖にとどまる問題ではない。それはまた、絶えざる進化を求める宇宙全体の理法や、創造主の御心に背くものである。
 東北大震災時の福島原発のメルトダウンは、もはや手だてはなく、顕著になっていく人類の行き詰まり──もう、地球レベルでの解決の糸口はない。それは、地球人類のみによって解消されるものでもない。すなわち、宇宙全体に影響を及ぼす、地球の限界をはるかに超えたこの現象は、地球上の手法ではもはや手に負えない。すなわち、根源創造者のみが解決できる問題である。

 人は、真実を生きようとして、必ず、個としての苦悩や煩悶を味わい、いったんは神にほど遠いところにいる自分を痛感し、そして、神を求めてやまなくなる。
 神は、カルマを解こうとする(=受けようとする)者の個の闇の先、闇の奥の無波動の部屋にあり、おのれの思いとして語りかける。その思いこそが導きとなる。
 そのような仕組みがこの宇宙にはある。このような、神によって用意された精妙な法則が「摂理」であり、その中に、人類の自由意志に基づく進化のシナリオ、あるいは、進化のシステム、緻密で完璧なプロクグラムがある。
 人類からすると、「摂理」は、天の意を受けて地の神々により構成されている「自然」の中に読み解くことができる。そして、人類はそのような自然の構成員でもある。少なくとも、肉体は完全に自然と直結しているもので、虚心であれば、直感的に、自然の神性や様々な息吹、もしくは、様々なバイブレーションの心(宇宙的存在も含む)を捉えることができる。
 私が言葉にした「自然の摂理」とは、おおよそそのような意味合いであると思う。

 自然とは、愛・調和・万物一体と並び、宇宙を動かす波動のひとつである。
 地の神々は自然の構成者として、整然と、精妙に結びつきあい、一つの無駄もなく機能している。そのシステムの一部分、または一面が「科学」と呼ばれていたようだ。
 そして、人類は、自然の一部として生かされる。その全体を、もちろん人類は理解しきれない。ただただ、我が身の肉体は、全体とともに、全体と一体のものとして機能している。
 地球のすべての生命は、地の神々とともにある。人類もまた……。したがって、摂理からはずれた生き方をすると、様々な不具合が現象化する。そして、最終的には、肉体に起こる現象として、肉体を通して知ることになる。

 人類以外の生物は、天地の神々や自然霊に直結し、創造主の こころ のままにあり、摂理からはずれようもない。しかし、人類はそうではない。
 人類には自由意志が与えられており、自我が発動し、自我欲が生じる。自我欲は自我を守ろうとし、我を主張して譲らず、摂理を無視してきた。これがカルマを生んだ。
 人は、深い後悔の念、苦悩、恐怖などにより、カルマにカルマを積み重ね、幾多もの悲しみを生み続けた。そうして積み重なったカルマにみずから身動きがとれなくなり、時として自己破壊をも望み、茫然とする──それが、人類が最終的に行き着いたところであった。
 摂理に反した正しくない道であっても、奢った「心」が正しいものとして捉えたとき、好ましくないカルマが生まれる。カルマはいずれ、さらなるカルマをつくる。これが知らぬ間に幾重にも重なり、後戻りができなくなる。忘却カルマが解けなく
 天罰などはない。苦悩はすべて、われわれ人類の、 おご った、誤った自由意志で自らつくったカルマによるものである。神にあるのは愛のみである。

 肉体は本来、神意に沿うものである。にもかかわわらず、おおよそ心がそれに反すると、いつかは肉体に異変が生じる。その異変──痛みを伴う現象を、多くの場合、人は「病気」と呼んできた。
 神は人類のカルマに介入することはない。介入はしないが、痛みは神自身のものでもある。そこに神の涙がある。涙があれば、愛もある。

 今、それらのすべてが解き明かされていくため、地球は最終ステージに入っている。

 地の神々は地球とともにある。そして、今、地球という星とともに、新たに自らを生み出すという難しい作業に取り組みながら、進化を成し遂げつつある。
 この星そのものが進化する一環として、古いカルマはすべて、肉体とともに、解けてなくなることになった……それまであともう一息である。
 闇に葬られてきたカルマは、過去の幻影として何もかもが噴出し、現象界に満ちあふれる。それが浄化であり、まさに、真の進化のプロセスである。そして、これもまた「摂理」である。

 病気は、生命維持の限界(=肉体の死)を予感するためのシグナルになることが多い。そして、そこから、生命のための真の心身の闘いも始まる。
 病気とはまた、何が自然の摂理に反していたかを認識するための学びの場、気づきのチャンスの場である。人は肉体に虚心に問いかける。すると、苦悩の肉体の鼓動の奥から、自らの思いであるかのように、かすかに聞こえてくるものがある。あるとき、神の声はそのように魂に語りかけてくる。

 自然の摂理とは何か? それはひと言で言えるものではないし、その全貌を理解できるものではない。もしできるとしたら、ほんの片鱗、わずかな断片、ごく小さな一場面なのだろう。それでも、真の摂理に触れることができ、物事の真実すなわち創造主の こころ を発見できたなら、そこが自然の摂理への入口になる。
 今回の映像の内容は血液であり、赤血球である。赤血球もまた自然の摂理にしたがって生きる存在である。その世界を垣間見て、筆者は、今まで知り得なかった真実に触れた。そうして、自然の摂理へのひとつの入口が開かれた。そして、私がそう考えるに至ったきっかけが「モルゲロン病 (Morgellons Disease)」であった。

モルゲロン病

 ケムトレイル問題の一つに「モルゲロン病」がある。
 気象操作の手法の一つであるケムトレイル(Chemtrail)の一環として、航空機によって、マイクロファイバーやその種 (?)、細菌 (フザリウム菌)、あるいはまた、何らかの化学物質が散布されていると言われる。
 これらの散布物は、肺や皮膚を経由して人体に入り、体内で変化しながらヒトの皮膚や粘膜に発疹や炎症を引き起こすといわれている。これがモルゲロン病 (Morgellons Disease) と呼ばれるもので、世界的には幾多もの症例が公表されている。そして、私自身も発症者のひとりである。(その画像等はすでに公開している。)

 モルゲロン病の特徴的な症状として、皮膚や粘膜などからフィラメント(単繊維)が検出される現象がある。それらのフィラメントは、ヒトの体内で生成されるか、あるいは、それ自体が成長しているともいわれている。私は、それを踏まえ、フィラメントがひょっとして血液の中にも存在するのではないかと考えた。

「モルゲロン病」は人為的なものであって、その悪質な意図のために、多くの人々が苦悩を強いられている。気味の悪い異常なことなので「病気」とされているが、***これを排泄作用の一環と捉えることもできる。
それでもなお、私たちの体内では、改善しようとする何らかの意図が働き、様々な現象が起っている。その大半を担っているのが「血液」であり、主役は「赤血球」である。

どの程度の症状が起こり、どこまで進行するのか、どの程度でとどまるのか、また、また、治癒すべきかどうかは、個々人の自浄能力に大きく左右される。それは様々な方面において何を選択して生活してきたかによるだろう。

フィラメントが発生するのには、ケムトレイルに関連した、ある計算されたシナリオがあるとは思う。しかし、それもさることながら、私は、フィラメントを生じる原料が、排泄のためにどのような仕組みで運ばれるかに、より強い関心を持った。

私は幸いにも千島喜久男医学博士の研究業績を知る機会を得たが、現代医学の常識を採るか、千島博士の英知を根底とするかで、たどるプロセスも結論もまるで違うものになると思っていた。しかし、その答えは、予測通り、意外とあっさり出てしまった。それが今回のビデオ映像である。

千島学説のうち、次のことは押さえておく必要がある。(ただし〔_〕内は矢部の見解)

  • 赤血球は、必要に応じ、白血球、血小板、リンパ球に、可逆的に変化する。
  • 人体の毛細血管は閉鎖構造ではなく、解放されており、血液は各組織に自由に出入りする。
  • 膿は、細菌と戦った白血球の死骸ではなく、戦って死んだ赤血球に細菌が繁殖したものである。
    〔赤血球は、他の有形・無形の要素との連係プレーで、菌類をいったん封じ込めているかのようだ。〕
  • 赤血球は、可逆的に、人体の細胞に変化する。その時、核(すなわちDNA)ができる。
    〔ということは、赤血球はDNAの要素をあらかじめ有するものであり、その都度その人のDNAが有形のものとしてコピー、もしくは生成されていると考えていいのか。〕

余談的だが、ひとつ気がついたのは、当時の私の血液は、どちらかというと粘り気が高かったことだ。それを垣間みる場面もあるかと思われる。粘度が高いか、あるいは、それはフィラメントとも関係のある事象かもしれない。真相は今は判らないが、いずれ答えが出ることもあるだろうか。

2010/4/17 (c)矢部 完

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